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自叙伝⑧(就職活動)


私の「就活」に対する興味・意欲は並々ならぬものがあったと思う。
なにせ,大学1年生の頃から「面接の達人」などの就活本を読んでいたくらいだ。
 
内容はあまり覚えていないが,
「この本をまだ大学1年・2年で読んでいる人はその時点で相当有利です」
みたいなことが書いてあった。
私もこの意見には心から賛同しており
フジゼミから大学へと進学していく若者に対しては
できるだけ1・2年生のうちに就活本を読むよう勧めている(オススメは「絶対内定」)
 
 
 
就活本には
人気企業に就職していく学生がどんな学生時代を過ごしたのか
どんなエントリーシートを書いたのか
面接で何を語ったのか
などが紹介されている。
 
 
大学4年になって,周りが就職活動を始めてからこの手の本を読んでも遅い。
ともすればかえって自信を失うことにもなりかねない。
逆に,早い段階で読む場合は
「どんな学生生活を送るべきか」という指針になるだろう。
高校生が読んでもモチベーションを高めてくれるはずだ。
 
 
さて,私の就職活動に話を戻す。
私の場合,前述の就活本に加え,
就職氷河期にありながら大手企業から次々に内定をもらっていく岩國ゼミの先輩諸氏という手本が間近にあった。

大学3年の冬になり,少しずつ周りが就活を意識し始めたころ
私はすでに自己分析を終えて戦闘態勢に入っていた。
 
 
 
志望はゼネコンと不動産業界
中卒の頃は日当いくらの末端作業員だった私にとって
町づくりなどのプロジェクトに関われることは大きな夢だった。
中学からの仲間が建設業界には多く
「あいつらと一緒に仕事をしたい」という思いもあった。
 
 
目指すは業界トップのスーパーゼネコン5社
リクナビから各社にエントリーし,資料が届くのを待った。

・・・ひたすら待ったが
どの企業からも資料は送られてこなかった。
 
どうやら大学名でフィルターにかけられ,弾かれたようだった。
(あくまで当時の話です。今はどうかわかりません)
 
 
 
しかし,そんなことでめげる私ではない
資料が届かない会社の人事部に片っ端から電話をかけた。

私:「資料請求をしたけど届かないのですが」
人事:「それは大変失礼しました。明日セミナーがあるので参加しませんか?」

こんなやり取りがあって,何とか各社の採用戦線に潜り込んだ。
 
 
 
ある大手ゼネコンのセミナーでのことだ。
会社説明が一通り終わると
A:「早稲田大学の方はこちらへ」
B:「明治大学の方はこちらへ」
と大学ごとに次々にグループ分けされていった。
当然ながら?國學院大学の名前は呼ばれない。

最期になって
C:「その他の大学の方はこちらへどうぞ」
とまとめて部屋に案内された。
そして案内された部屋でいきなり面接が始まった。
 
 
おそらくどの学生も,その日はただの説明会と思っていただろう。
順番に質問されていくわけだが,誰一人としてまともに答えられない。
建設業界を志望した理由を聞かれても
「地図に残る仕事がしたい」
とか,パンフレットからつまみ出した言葉を並べるばかりだった。
 
 
私の番がやってきた。
・大学時代に何を勉強したか?
・勉強以外に何に取り組んだか?
・なぜ建設業界を志望するのか?
・その中でもなぜこの会社なのか?

いろいろ質問されたが,すでに徹底的な自己分析によって臨戦モードに入っていた私にとって臆するものは何もない。
過去の経歴も正直に話した。
 
 
 
私の経歴にドン引きされることもあったが
逆にその生き方を評価してくれる企業もあり
最終的に数社から内定をもらった。
 
 
5月が過ぎると,内定者を集めて食事会などが何度か行われた。
私が入社することになる大林組の集まりでのことだ。
席上,人事部の人たちから別室に呼び出された。
 
人事:「なぜ君を採用したか分かるか?」
私:「わかりません」
人事:「うちの会社はいわゆる難関大学を卒業した優秀な人が多い。だけど組織の中で働くうちに,みんな枠の中に収まっていってしまう。君はその枠を壊してくれると期待している。小さくまとまらず,自分の正しいと思うことをどんどんやってくれ。やりすぎたら俺たちが止めるしフォローもする。心配せずに思い切りやればいい。」
 
大学の就職課のスタッフは,就職活動で過去の経歴を話すことに反対だった。
「正直に経歴を話して評価してくれない企業ならこちらからお断りだ」
という強気で挑んだ就職活動だったが,
ここまでの言葉をかけてもらったことに,心の底から感動した。
 
 
 
フジゼミには中卒や高校中退者も多くやってくる。
中には元暴走族や引きこもりもいる。
そのまま悪さに明け暮れていても誰も評価してくれないが
自分で気づき,将来のために行動し,結果を出したら
その生き方はきっと評価される。
社会の中で,いずれ君たちのような逆境から這い上がってきた人は必要とされる。
 
 
 
私の経験から確信をもってこの言葉をかけるようにしている。

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自叙伝⑬(最終章)


フジゼミ設立から11年
初期のゼミ生はすでに大学を卒業し,幅広い業界で活躍している。
 
 
K君という卒業生がいる
フジゼミで勉強を始めたのは二十歳を過ぎてからだった。
 
 
彼はフジゼミで約2年間勉強し
22歳で(つまり4年遅れで)青山学院大学国際政治経済学部へ進学した。
 
 
4年遅れと聞くと,大きなハンデだと感じる人もいるだろう。
だが,学生時代に多くの経験を積んだK君は
数百倍という倍率を勝ち抜き,最大手のテレビ局から内定を勝ち取った。
現在は政治部のスタッフとして
たまに国会からのレポート姿を見せてくれる。
 
 
K君は大学4年生の時,フジゼミ生にエールを送りにきてくれた。
受験生時代の苦労話
バックパッカーで世界各国を放浪した話
若者の政治参加を呼び掛ける学生団体での話
いろいろな大学から集まった有志でチームを組みビジネスコンテストに出場した話
 
 ノートパソコンとプロジェクターを使った話に
ゼミ生たちが目を輝かせながら聞き入っていた光景が今でも目に浮かぶ
 
 
 
K君に限らず,
毎年いろいろなOBがフジゼミを訪れてきてはゼミ生の前で体験談を語ってくれる。

「塾にOBが訪ねてくるなんて珍しい」とよく言われるが,
ゼミ生や卒業生の中には,目に見えない絆があり,
また次の世代へと受け継がれていっているように感じる。
 
 
 
 
さて,フジゼミを設立して私自身が変わったことがある。

それまでの私は,
・いかに世の中に名を残すか
・いかに稼ぐか
・いかに出世するか
とにかく「自分」中心の考えだった。

それが,若者を育てる中で確実に変わっていった。
 
 
 
私も今年で40歳。
これまでの人生で得た経験,知識,人のつながり,受け取った言葉などを
自分より20歳も離れた若者に伝えることができれば,
彼らが私の年齢になる頃には,とてつもなく大きな存在になっているかもしれない。

そんな可能性のある若者を
これから何百人,何千人と発掘し,育てあげ,広い世界へと送り出してあげたい。
それこそがフジゼミを続けていく一番の意義だと確信している。
 

 
 
============================
 
長らく書いてきましたが,
自叙伝シリーズはこれにて終わりにします。
 
コラムは今後も様々なテーマで書き続けます。
叱咤激励,リクエスト,質問など,執筆意欲につながりますので
遠慮なくご意見をお寄せください。
 
 
引き続きよろしくお願いします。

自叙伝⑫(フジゼミ設立)


2003年5月

21歳で大学に進学して以来,7年ぶりに故郷での生活が始まった。
 
 
年末までは,フジゼミの設立準備を進めながらひたすら勉強の日々・・・
その間,貿易会社に勤めていた姉を口説いて合流してもらった。
 
 
年明けと同時に3LDKのマンションの一室を契約
看板はナシ
広告宣伝もナシ
そもそも私も姉も,大学では教職課程を履修しておらず,
教員免許を持っていない。
人に勉強を教えた経験もない。
一般的な塾や予備校に通った経験もほとんどない。
そんな“ナイナイづくし”のスタートだった。
 
 
最初の生徒は総勢5名
うち1人は中学の同級生S(女性)だった。
当時,彼女は高級クラブで売れっ子のキャストとして働いていたが
ある日,相談に乗ってほしいとやってきた。

 
 
29歳になった今,このまま夜の仕事を続けるか本気で迷っている
本当は保母さんになりたいとずっと思っていた
今からでも可能性があるなら挑戦したい
とのことだった。
その決断に心から同意したのは言うまでもない。
 
 
午前中は実家で内職の手伝い
午後からフジゼミで勉強
夕方から美容院で髪をセットして出勤し,深夜2時過ぎに帰宅
この恐ろしくハードなスケジュールをこなしながら,
半年後に大検に合格,さらに短大の保育科を受験して合格した。

現在,彼女は鹿児島県内で保育士として活躍している。
 
 
 
Sが大検に合格した直後,もう一人の同級生K(女性)がフジゼミにやってきた。
20歳で結婚した彼女には3人の子どもがいた
家族を養うために,ラーメン店などいくつか仕事を掛け持ちしていたが,
今後のことを考えて,専門的な資格を目指したいとのことだった。
 
 
Kは私たち同級生の中では“おバカキャラ”で通っており
分数の計算はダメ
かけ算の九九も珍回答の連発というレベルだった。
 
 
姉曰く,「フジゼミの歴史の中で最も教えるのが大変だった」
とのことだが,
Kは睡眠時間を削って仕事と子育てと勉強をやり切り,
4ヶ月後に准看護学校に合格した。
在学中に高卒認定試験にも合格した彼女は,
卒業後は看護課程へと進学して看護師の資格を取得した。
 
 
看護学校時代,「看護の日」という行事で
Kが全生徒を前にして体験発表をすることになった。
客席の後方には,ビデオカメラを持ったKの両親,3人の子どもたち,子どもの友人たちと
総勢10名ほどのギャラリーがずらっと並んだそうだ。

現在,福山市内の総合病院でバリバリの看護師として活躍しているKには
私たち講師陣もたくさんの自信をつけてもらった。
 
 
 
 
余談だが,数年後にKを超えるツワモノが現れた。
 
 
「先生,ワタシ,
ドゥーとドエスの違いがイマイチわからないんですけど」
(・・・ちなみに,doとdoesのことです)
 
それを隣で聞いていた姉が一言

姉:「ねえYちゃん,ルート(√)って聞いたことある?」
Y:「あ,ルート!知ってますよー。“道”ですよね!」
 
 
こうやって多くの珍回答に出会いながら,私たちも経験を積んできた。
おかげで,今は少々のことでは屁とも思わない。
 
 
 
 
 
設立から数年間,フジゼミの生徒層は
ツッパリ君
不登校君
ニート君
が中心だった。
 
 
そんな彼らの中からMARCHや関関同立の合格者が出たのを機に,
少しずつ普通の(?)高校生や浪人生も入塾してくるようになった。
 
 
今では高校生が全体の6割を占めているが,
初期の時代を支えた生徒層ももちろん健在だ
 
 
年齢,経歴,学力,一切不問
 
 
この方針はこの先も永遠に守っていきたい。

自叙伝⑪(選挙)


大林組を退職するのとちょうど同じ時期に,
岩國ゼミ時代からの盟友である小山有彦君が訪ねてきた。
彼は大学卒業後,国会議員の秘書を務めていたが
このたび市会議員選挙に立候補することを決意したという。
そして「一緒に選挙戦を戦ってほしい」と深く頭を下げられた。
 
 
 
生まれ故郷の千葉市ではなく,
大学卒業後に暮らす東京都府中市で立候補するということを聞き,一瞬ためらった。
府中は武蔵国の国府として栄えた歴史ある町だ。
代々続く地元の名士や企業も多い。
わずか3,4年間暮らしただけの若造が市議選に立候補するとなると
古参の議員からの猛反発も予想される。
 
 
「だからこそ,藤岡くんでなければ戦えない」
と小山君は言った。
 
 知名度は全くない。
誰かの後ろ盾も,選挙資金もほとんどない。
それでも府中から立候補することを決意した経緯などをこつこつと説かれ,
「自分が政治家としてこの先やっていくためにも,人生を賭けた戦いになる。どうか一緒に戦ってほしい」
と真顔で真剣にお願いされた。
 
 
私が合流したのは退職後の2003年1月中旬のことだ。
4月に行われる選挙本番までは3ヶ月しかない。

私のほかに,やはり岩國ゼミ時代からの親友である丸山君も加わった。
資金がほとんどなかったため,小山君の自宅を事務所と兼用にし
ここに私と小山君と丸山君の3人が寝泊まりした。
 
 
政治活動用のチラシ
選挙ポスター
新聞に掲載する選挙公報
選挙カーや事務所の看板など
広報物関係は全て丸山君が中心となって自作した。
 
 
外部との交渉,契約関係,立候補届け出
日々の活動の立案と進捗把握などは
公職選挙法を片手に全て私が担当した。
 
 
そうして迎えた選挙本番,
小山君は2525票を集めて当選した。
 
 
 
この選挙に関してひとつエピソードがある。
 
 
 
知名度の低い小山君は,ポスターの掲示や駅での演説など,
「空中戦」といわれる戦術を駆使して顔を売っていった。
演説の上手さはピカ一だったのでとにかく目立った。

 
こうした若者らしい派手な活動に対して
事前の予想どおりさまざまな反発や嫌がらせがあった。
何度も地元の警察署から連絡があり,そのたびに私が出向いて対応した。
私たちも公職選挙法に違反しないことに細心の注意を払って活動した。
 
 
 
当選の一報が入り,
十数人の仲間や支援者らで万歳三唱をした後,
私は2人の若者を呼び出した。
 
 
2人とも19歳で,小山君が学習塾に勤めていた頃の教え子だった。
公職選挙法では,未成年者の選挙運動は禁じられている。
もちろん私はそのことを承知していたので,
彼らには旗持ちとか雑用など,違反にならないことを任せていた。
とはいえ,万が一にでも彼らが警察に事情を聞かれる場合に備えて模擬取り調べをすることにした。
 
 
私:「おまえ,〇月日に駅で「よろしくお願いします」と言ってただろう」
A:「いえ,藤岡さんに何も言わないようにと言われていたので黙ってました」
私:「嘘を言うな,ここに写真があるんだ」
などなど。
 
 
自慢ではないが,私は警察の取り調べには慣れている。
あらゆる状況を想定して,2人に徹底的に教え込んだ。
あくまで万が一の可能性を考えて・・・
 
 
ところが翌々日,彼らが本当に警察に任意同行で連れて行かれたのだ。
一人は彼女とのデートで駅に向かう途中,いきなり目の前に車が止まって連行された。
もう一人は,家に一人でいるところを警察官が乗り込んできた。

突然2人と連絡がつかなくなったので,私たちも事態を把握し
いろいろと対策を考えた。
 
 
 
その日の夜,彼らが元気な姿で帰ってきた。
警察に本当に連行された時はさすがに焦ったが,
私の模擬取り調べと全く同じことを聞かれたらしい。
練習したとおりに答え,最後には警官と仲良くなって解放されたらしい。
 
笑い話ですんだが,対策をしておいて本当によかった。
 
 
余談だが,
小山君は府中市議を2期務めた後,都議会議員に立候補して当選した。
現在2期目を務めているが,もうすっかり府中の顔として活躍している。
警察に連行された若者2人はいずれも大学を卒業し,
1人は警視庁に採用されて警察官として頑張っている。
 
 
 
選挙後,私は会計責任者として必要な書類を作成・提出し,
小山君の初登院を見届けて広島に帰った。

自叙伝⑩(転機)


私の生まれ故郷では,毎年夏に「ケンカ神輿」として知られる勇壮な祭りが行われる。
生粋の祭バカである私は,学生時代はもちろん
札幌勤務になっても毎年お祭りには故郷に帰り,神輿を担いでいた。
 
 
25歳。
社会人2年目の夏,いつものようにこの祭に合わせて地元に帰ってくると
中学時代の仲間を中心に総勢30人ほどの同級生が歓迎会を開いてくれた。
 
中には「大学に行く」と宣言して以来の再会となる仲間もいて
みんな口々に
「おまえはすげえ」
「俺らの誇りじゃ」
みたいな言葉をかけてくれた。
 
 
だけど,なぜだかその言葉を心の底から喜べない自分がいた。
 
 
中学時代からの悪友の中で,大学に行ったのは私だけだ。
ほとんどが中卒か高校中退で,25歳だったこの当時,定職についていない者もいた。
まだ世間知らずで何でもできると考えていた頃と違い,
おとなしくなり,少し元気がないようにみえた。

「おまえはすげえよ」

という言葉に対して,何か返そうとしても言葉が続かなかった。
 
 
 
自分は恵まれている。
運よくいろんな人に助けてもらった。
今は大きなやりがいのある仕事につけている。
でも,こうやって自分一人が世界をどんどん広げていくことが俺のやるべきことなのか?
それで自分が満足できるのか?
この親友たちと,ずっと対等に付き合っていけるのか?
そんなことを考えていた。
 
 
 
もう一点。
呉服屋のおっちゃんの元で勉強した膨大な量のファイル
これは私の宝物だった。
東京の大学時代,札幌のサラリーマン時代と場所が変わっても
必ずそれを持っていき,大事に棚に並べていた。
時々中を開いてみて
「こうやって一から勉強すれば誰でもできるようになるのにな」
と思ったりしていた。
 
 
 
その夏以降,またサラリーマンとしての日々に戻ったが,
自分の5年後,10年後を考えるようになった。
このまま会社で働き,語学力を身につけ,ゆくゆくは海外でインフラ建設に携わりたい
そう考える一方で,それが本当に自分の一番やりたいことなのか
自問自答を繰り返した。
 
 
 
そんな時,今のフジゼミの構想を思いついた。
自分が教わった一からやり直す勉強,これをシステム化できれば
もっと多くの人に同じように教えることができる。
他の科目も同じように一から教えれば
細かい点をいろいろ改良していけば
自分以上のレベルの大学を目指すこともできる。

サラリーマンとしての,自分一人がどうするかという道ではなく
もっと多くの人に,自分が経験したことを伝える道の方が
自分にしかできないことではないだろうか。

そんな思いが日増しに強くなっていった。
 
 
 
それから1年後,私は決心して会社に辞職願を出した。
 
 
 
フジゼミの構想はあっても具体的な準備は何一つしていないという
今考えると無謀とも言える行動だった。
あと1年会社に残ると,決心が揺るぎそうな気がしたからだ。
 
 
 
2002年12月31日付で大林組を退職
1週間後,苫小牧発秋田行きのフェリーで北海道を離れた。

自叙伝⑨(サラリーマン時代)


2000年4月,社会人としての新たな生活が始まった。
 
 
 
1ヶ月間の研修期間を経て,配属面談が行われた。
希望する勤務地,希望する部署を聞かれるわけだが
同期の誰もが勤務地は東京本社か大阪本店,
部署であれば「人事部」や「建築事業本部本部長室企画課」など
いかにも花形そうなネーミングの部署を希望した。

そんな中,私はためらうことなく札幌支店の総務部総務課を希望した。
 
大林組は社員数1万数千名を抱える企業だ。
新入社員のペーペーが本社の部署に行っても末端の仕事くらいしかできない。
それに対し,支店の総務であれば
総務,人事,広報,経営企画といった管理部門の全てを担当できる。
言うなれば中小企業の経営に直接携わるようなものだ。

札幌支店は当時全支店の中で最も規模が小さかった。
ということは新入社員でもいろいろ担当させてもらえるチャンスもある。
私は生粋の雪オタクで,雪にまみれた暮らしに憧れていたということも・・・多少はある。

 
 
配属面談では,このような自分の考えを伝えた。

みんなから「おまえらしい」と笑われたが
希望がかなって五月連休前に人生初の北の大地へと旅立った。

 
 
 
仕事は私が予想した通り,幅広いことを任された。
総務としての仕事はもちろん
・新入社員の採用
情報化計画の策定
損害保険会社との交渉
現場の事務担当者を集めての講習会
果てには総務部長や支店長のあいさつの原稿から労働組合の書記長まで
とにかく多くのことを経験した。
 
 
 
ひとつ忘れられないエピソードがある。
 
 
 
総務の仕事の一つに「稟議書の精査・承認」というものがあり
私は広告と寄付に関する案件を担当していた。
 
 
ある日,某営業所から地元のお祭りに寄付したいという稟議書が回ってきた。
中を見ると「依頼があったから寄付したい」というあまりに杓子定規な内容だったので営業所の所長(50歳代)に電話をかけた。
 
 
私:「この寄付の稟議書ですが,もう少し正当な理由を書いてもらえませんか?」
所長:「どこがいけないんだ?去年も一昨年も同じ内容なんだぞ!(怒)」
私:「依頼があったからというのは理由になりません。いま営業中の案件を載せるとか,もう少し中身を濃くしてください。支店全体でも経費削減が求められている中,この文面では承認できませんよ。」
所長:「いちいち細かいことを言うな!だいたいお前,新入社員だろうが!(怒)」
私:「特に広告や寄付については見直していく方針をお伝えしているはずです。新入社員と言われますが,新入社員くらい説得できるような内容を書いて・・・」

言い終わる前にガッチャーーン!!!と電話を切られた。
 
 
その10秒後,隣にいる先輩(課長代理相当)の席の電話が鳴った。
 
先輩:「・・・はい,・・・・・・はい,・・・・はぁ,・・・ええ,・・・・・・」
というやりとりの後で
先輩:「それは藤岡が言っていることが正しいですから。その通りにお願いします」
とピシャリと伝え,電話を切った。

そして私に一言
「お前が正しい。よく言った。」
 
 
 
そんなこんなで自信をつけてもらい,
サラリーマンとしての日々が1年,2年と過ぎていった。